Wednesday, March 08, 2006

真実(ほんと)に厭(いや)

急に、子供は身体が具合が悪かった。三吉の学校では暑中休暇も短いので、復た彼は弁当を提(さ)げて通う人であったが、帰って来てみると、家のものが皆なでお房の機嫌(きげん)を取っていた。お房は母親から離れずに泣き続けた。「まあ、どうしたんだろう、この児は」とお雪は持余(もてあま)している。「智慧熱(ちえねつ)という奴かも知れんよ」と三吉も言ってみた。「橋本の薬をすこし服(の)ませてみるが可い」 夫婦は他の事を忘れて、一緒にお房のことを心配した。子供の泣声ほど直接(じか)に三吉の頭脳(あたま)へ響けて、苦痛を与えるものは無かった。あまりお房が泣止まないので、三吉は抱取って、庭の方へ行って見せるやら、でんでん太皷だの笛だのを取出して見せるやら、種々にして賺(すか)したが、どうしてもお房の気に入らなかった。 お房の発熱は、大人の病気と違って、さまざまなことを夫婦に考えさせた。その夜は二人とも、熱臭い子供の枕許に集って、一晩中寝ずにも看護をしようとした。やがてお房は熟睡した。熱もそうタイしたことでは無いらしかった。三吉はお房の寝顔を眺めていたが、そのうちに疲労(つかれ)が出て、眠くなった。 何時の間にか三吉は時と場所の区別も無いような世界の中に居た。そこには、唯恐しさがあった。無智な子供のような恐しさがあった……見ると病室だ。出たり入ったりしているのは医者らしい人達だ。寝台(ねだい)の上に横たわっている婦人は曾根だ。曾根は三吉に蒼(あお)ざめた手を出して見せて、自分の病気はここに在(あ)ると言う。人差指には小さい穴が二つ開いている。痛そうに血が浸染(にじ)んでいる。医者が来て、その穴へU字形の針金を填(は)めると、そんな酷(ひど)いことをしてどうすると叫びながら、病人は子供のように泣いた…… 三吉はすこし正気に復(かえ)った。未だ彼は曾根の病床に附いていて、看護を怠らないような気がしていた……ふと眼が覚めた。気がついてみると、三吉は自分の細君の側に居た。 このお房の発熱は一晩若い親達を驚かしたばかりで、彼女は直に壮健(じょうぶ)そうな、好く笑う子供に復(かえ)った。 朝晩は羽織を欲しいと思うように成ったのも、間もなくであった。暑中休暇を送りに来た人達もそろそろ帰仕度を始(はじめ)た。九月に入って、お福は東京の学校へ向けて発った。 直樹が別れて行く日も近づいた。浅間登山の連(つれ)があって、この中学生も一行の中に加わって出掛けた。丁度三吉は午前だけ学校のある日で、課業を済まして門を出ると、曾根の宿を訪ねてみたく成った。折角(せっかく)知人が同じ山の上に来ている。この人の帰京も近づいたろう。病気はどうか。こう思った。彼の足は学校から直(じか)に停車場の方へ向いた。 上りの汽車が来た。 午後の一時過には、三吉は汽車の窓から浅間の方を眺めて、直樹のことを想像しながら行く人であった。濃い灰色の雲は山の麓(ふもと)の方まで垂下って来ていた。 高原の上はヒドい霧であった。殆(ほと)んど雨のような霧であった。停車場(ステーション)から曾根の宿まで、道は可成(かなり)有る。古い駅路に残った旅舎(やどや)へ着いた時は、三吉が学校通いの夏服も酷く濡(ぬ)れた。 曾根が借りている部屋は、奥の方にある二階の一室で、そこには女ばかり三四人集っていた。孀暮(やもめぐら)しをしつけた人達は、田舎の旅舎へ来ても、淋しい男気(おとこけ)のない様子に見えた。いずれも煙草一つ服(の)まないような婦人の連で、例の曾根の親戚にあたるという人は見えなかったが、肥った女学生は居た。煙草好な三吉はヤリキレなくて、巻煙草を取出しながら独りで燻(ふか)し始めた。「あれ、煙草盆も進(あ)げなかった」 と曾根はサッパリした調子で言って、客の為に宿から取寄せて出した。女学生はかわるがわる茶を入れたり、菓物(くだもの)を階下(した)から持運んだりした。歩いて来た故(せい)か、三吉ばかりは額から汗が出る。 曾根はつつましそうに、「まあ、そんなに御暑いんですか。私は又、御寒いと思っていますのに」 こう言いながら、白い単衣(ひとえ)の襟を掻合(かきあわ)せた。彼女は顔色も蒼(あお)ざめていた。 何時の間にか連の人達は出て行った。窓の障子の明いたところからは、冷々とした霧が部屋の内まで入って来た。曾根の話は、三吉の家を訪ねた時のことから、草木の茂った城跡の感じの深かったことや、千曲川の眺望(ながめ)の悲しく思われたことなどに移った。三吉は曾根の身体のことを尋ねてみた。「別に変りましたことも御座いません」と曾根は悩ましそうに、「山を下りましたら、海辺(かいへん)へ参ってみようかと思います」 こう言って、それから海と山の比較などを始める。「たしか、小泉さんは山が御好なんで御座いましたねえ」とも言った。 三吉はすこし煩(うる)さそうに、「医者は何と言うんですか、貴方(あなた)の御病気を」「医者? 医者の言うことなぞがどうして宛(あて)に成りましょう。女の病気とさえ言えば、直ぐ歇私的里(ヒステリイ)……」 曾根の癖として、何時(いつ)でも自身の解剖に落ちて行く。彼女はそこまで話を持って行かなければ承知しなかった。「私の友達で一緒に音楽を始めました人も、そう申すんで御座いますよ――私ほど気心の解らない者は無い、こうして十年も交際(つきあ)っているのにッて」曾根は自分で自分を嘲(あざけ)るように言った。 三吉も冷やかに、「貴方のは――誰もこう同情を寄せることの出来ないような人なんでしょう」「では、私を御知りなさらないんだ」と言って、曾根は寂しそうに笑って、「昨晩は悲しい夢を見ましたんで御座いますよ……」 三吉は曾根のションボリとした様子を眺めた。「私は死んだ夢を見ました……」 こう言って、曾根は震えた。暫時(しばらく)二人は無言でいた。「ああ……私は東京の方へ帰るという気分に成りません。東京へ帰るのは、真実(ほんと)に厭(いや)で……」曾根は嘆息するように言出した。「してみると、貴方も孤独な人ですかネ」と言って、復た三吉は巻煙草を燻した。窓の外は陰気な霧に包まれたり、時とすると薄日が幽(かす)かに射したりした。

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